2016年08月01日

因果論について

仏教の重要なテーマに因果論があります


「原因があって結果がある」


ということです


当たり前ですね


逆に原因のない結果とはなにか


それは人知を超えたこの世の外の絶対的な神がすべてを決定しているという立場です。
因果論の強調は、それを認めないということでもあるのですが、
なおさらそれは宗教から遠い原理ではないのかと感じていました。


因果論にどのような宗教的な意味があるのか


私は実際に信者さんのありようを見ていて感じることがあります。


たとえば、何度も何度も引き続いて病魔に襲われる人がいます。


その方は、なぜ自分はこんな目にあうのかと問うでしょう
医学的な診断が下され、例えば糖尿病だとか、ガンだとか、心筋梗塞だとか言われてもそれはどのように病気になったのか、HOWを言うだけでWHY(なぜ)には答えてはくれません。


甘いものの食べ過ぎとか、煙草の吸いすぎとか、遺伝とか言われてもその人にはなんの慰めにもならないでしょう。


私どもはその病気には原因があるのだ、と答えるしかありません。
その原因とは当人が作ったものもあるでしょう。親が作ったものもあるかもしれません。

生まれる前の前世で、その人が作ったものかもしれません。
遠い昔その人の先祖が何かをしたのかもしれません。
先祖だけでなく、村や集団の作った悪業かもしれません。


もはや原因は特定できません。
それはどこまでも過去にさかのぼり、関わる人は無限に広がり無始に至ります。
しかし原因はあるのです。


私たちはその過去のすべての原因を引きずって今に生きています。


霊能者と呼ばれる人がいて、たとえば四代前の男の人が不慮の死を遂げ、祀られていないのが原因だと言ったりします。実際に調べてみるとその通りのことが確認できて、回向すると病気が治ったりします。


あやふなな状態に確定した形が与えられ、具体的な対応策が提示される
それだけで人は安心感を得るのでしょう


しかしそれで終わってしまってはもったいない。
原因は、それだけでは終わらないはずです。その男の人の死にはさらなる原因があるのです。
どこまで行っても尽きることのない原因。


発症した病気には前世も含めた過去のすべてを引きずった「原因」があるのだという現実を丸ごと引き受けるしかありません。


そしてここがポイントですが、私たちはその原因を解消する責任を負わされているのです。
私はここがまずは宗教的な感覚だと思います。


自分の知らないこと、自分が直接やっていない悪事、それについても私たちは責任を負っているという感覚。



併せて、悪業に対して、申し訳ないという謝罪の感覚が伴う必要があります。
自分は何もしていないという点に執着していると事態は動きません。


逆にこの感覚を受け止めると、仏さまの救済が動き始めます
仏さまの救済の風はいつでも吹いています。
しかしその風を受けとめる帆を張らない限り船は前に進みません。


「なぜ、自分はこんなひどい目に合うのだ、こんなひどい目にあうほどの悪事は自分はなしていない。」
ここにとどまってはなりません


実はこの感覚は仏教のもう一つの大事なテーマ「空」ともかかわってきます。
病気は世界から切り離されたある特定の人だけに限定された現象ではありません。


すべての過去、すべての関係性の糸が紡ぎあげた移りゆく現象です。
不幸も病気も移りゆくものです。


仏さまも因果の内にいらっしゃいます。仏さまは悪業をなかったことにはしてくださいません。
しかし悪業の解消を力強く支援してくださいます。
そのためには結果には原因があるのだ、悪業があるのだということを、まずは受け入れる必要があるのだと思います


不幸があった、ご祈祷したらよくなった、そこだけにとどまっているとただの呪術に落ちます。

お気を付けください。



posted by 竜光 at 20:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | お説教

2016年07月30日

8/20 地蔵尊施餓鬼万霊供養のご案内

地蔵尊施餓鬼万霊供養のご案内

今年もお地蔵様の施餓鬼の候がまいりましたのでご案内申し上げます。

お施餓鬼は餓鬼道にある亡者たちに飲食をさしあげ、仏戒をお授けして苦海より救い、その功徳をご先祖、水子さん、ご友人、ペット、その他縁ある方々に回向して冥福が厚からんようご祈祷致します。

ぜひ、お施餓鬼供養をなさることをお薦めいたします。

なお、当金剛尊院教会では、月々の御札を申し込まれている信者様全員に「三界万霊」の供養をお願いしております。

ご自身のご祈願のためだけではなく、ご自分と直接には関わりのない、この世もあの世も含めたあらゆる世界の諸霊を供養しお慰めすること。

この施しのこころ、布施のこころを年に一度、発心していただきたく、このような機会を設けさせていただいております。

この積徳こそ、ひいてはご自身のご祈願が仏様に通じるための土台作りとなるのです。もちろん、信者様以外の方にもお薦めいたします。

餓鬼道とは生前、貪るばかりで施すことを知らぬものが落ちる苦しみの世界です。

この餓鬼を供養することは実は、増益法となっております。

餓鬼が溜め込むばかりで有効に使われなかった財物に命を与える意味もあるのです。お施主の金運向上の意味も含まれています。

お申し込みはトップページの「お申し込み。お問い合わせ」を通じて、または直接お電話くだざいませ。お振込み先をご案内たします。

例 ご先祖 水子さん【お塔婆は人数分必要】恩師 ご友人 ペット 三界万霊 なお故人の場合は戒名でも実名でも可

ご志納 一霊 三千円

期日 8月20日 土曜日 午後3時より 当院にてご祈願いたします。
お申し込みは前日までお受けいたします
。 

供養したお塔婆は当院にてお祀りするため、お送りいたしておりませんが、代わりに、お地蔵様の御影(携帯できるお守り)をお送りしていおります。


posted by 竜光 at 07:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 行事

2016年06月27日

密教と吉凶

本日、真言宗智山派 別院真福寺 講堂にて師匠の羽田守快先生が「密教と吉凶」について講演をなさいました。
羽田先生はもとより、尊星王流宿曜占星術の創始者であり、密教の修法・事相の泰斗である方です。
1時間半の講演、20分の質疑でしたので、宿曜占星術の詳細を語ることはなさいませんでしたが、仏教と占いとのかかわり、僧侶としての心構え、ひいては密教の奥義にいたるお話しをなさってくださいました。

特に、感動したのは以下の内容です。

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迷故三界城
悟故十方空 
本來無東西 
何処有南北
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迷うが故に三界に城あり
悟るが故に十方空なり
本来東西無し
いずくんぞ南北有らん

城とは壁で四方を囲まれた中国の城壁都市をイメージします。
迷っていると周りは壁で囲まれているという意味です。
本来東西はない。どこに南北があるというのか。

上記の句は方位除けでお唱えする常套句です。
要は、方位の災いなど無いと思えということです。

これは、方位の災いなど迷信だと笑い飛ばす人には方災は来ないということを意味しません。
方災はあるのです。それを知った上で否定する。
ランクアップする(これは羽田先生の用語です)ことが大事であると羽田先生はお説きになりました。

それは吉凶も同じであると。
運がいいとか‭悪いとか、そういうことって確かにあるのです。
吉凶があることを認め、そのうえでそれを否定する。このプロセスを先生は塞翁が馬の例で教えてくださいました。

これは御祈祷の原理や密教の奥義にかかわる話であると思います。
御祈祷は科学的な記述にはなじまない事柄ですから、学者や思想的に仏教をとらえている人たちには高尚なものとして見られない傾向があります。

しかしそこには深遠な思想が隠れているのだということを羽田先生はお示しくださいました。
まさに原始仏教ではなく大乗仏教のあり方であり、私はそこに関われていることに誇りを新たにすることができました。

占いとは(特に宿曜占星術)前世からの業の今世での現れを示しているというお話しもありました。
業論の重要性も羽田先生がよく説かれることの一つです。

今回の講演は真言宗智山派の智山教化センターの企画によって行われました。
たいへんありがたいことです。
会場は満杯で入場を断られた方もいらしたそうです。

その貴重な内容を一部とはいえここに出してしまうことに一抹の不安もありますが、内容がすばらしいことと智山教化センターのご厚意でお金を払わなければ聞けない内容ではなかったことを鑑み、ここに記しました。文責は当然私藤川にあります。ご容赦くださいませ。


posted by 竜光 at 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 仏像