2017年10月05日

身を捨ててこそ…

先日、「52days 子規と漱石」というお芝居を観に行きました

そこでの台詞です
子規が漱石にいう言葉です

「人生を受け入れるとは、望みを捨てることだ」

子規が西洋の点字教育について語る場面です

西洋では目の見えない人の為に「点字」という指で触って読む文字がある。点字の習得の早さには個人差があって、どういう人が覚えられないかというと「将来、画期的な治療法や新薬が発明され、いつか目が見えるようになるかも知れない」と考える人たちだという

いつか治るかも知れない、と思っている人は、点字という新しいものを受け入れられない

現状を受け入れ、次の段階に進むためには一度絶望する必要があるというのです

大変ショッキングな台詞でしたが、その通りだと感じました

通常、困難を切り抜けるためには、諦めない、望みを捨てないことが強調されると思います

しかし、現状を受け入れ、次のステップに進むためには一度、希望を捨てよ、というのです

病気を治したいとき、治療法Aを試し、治療法Bを試し、C、D、と巡るよりも、「治ること自体を諦める」ことで、その人にとって最適な生き方(あるいは死に方)が見えてくるかも知れないという指摘です

目が見えないなら「なんとか見えるようになりたい」を諦め、視覚以外(例えば点字)で情報を得ることを考えよ、というのです

これは幸せに生きるためには、眼前の解決しなくてはならない問題そのものを変換せよ、ということかも知れません

子供が引きこもりなら、そのこと自体に執着せず、家族がハッピーになることが目的です

子供をなんとしてでも外に出すことだけに注力してしまうと、上手くいかないかも知れません

しかし、心に刺さる言葉ではありますが、現実に応用するのは難しそうです

親に暴力を振るわれる子供や、末期ガンの患者に、暴力や死を受け入れよ、と簡単に言えるはずはありません

特に昨今は諦めるのは難しくなっています

次々と新しいテクノロジーが開発され、情報を広範囲に求めることができる今、諦めることは難しそうです

執着を捨てるのは、ますます難しくなっているようです

執着を捨てない限り、次のステップには行けないことには以前から気づいておりました

しかし、執着を捨てるとは現状に絶望することだ、と言い換えることは、たとえ真実だとしても恐ろしい

深く味わうべき言葉だと思います

一度、絶望しないでは次に進めないかも知れない

私たちは、絶望する勇気を持つべきかも知れないのです

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

なのです


posted by 竜光 at 20:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | お説教

2016年08月01日

因果論について

仏教の重要なテーマに因果論があります


「原因があって結果がある」


ということです


当たり前ですね


逆に原因のない結果とはなにか


それは人知を超えたこの世の外の絶対的な神がすべてを決定しているという立場です。
因果論の強調は、それを認めないということでもあるのですが、
なおさらそれは宗教から遠い原理ではないのかと感じていました。


因果論にどのような宗教的な意味があるのか


私は実際に信者さんのありようを見ていて感じることがあります。


たとえば、何度も何度も引き続いて病魔に襲われる人がいます。


その方は、なぜ自分はこんな目にあうのかと問うでしょう
医学的な診断が下され、例えば糖尿病だとか、ガンだとか、心筋梗塞だとか言われてもそれはどのように病気になったのか、HOWを言うだけでWHY(なぜ)には答えてはくれません。


甘いものの食べ過ぎとか、煙草の吸いすぎとか、遺伝とか言われてもその人にはなんの慰めにもならないでしょう。


私どもはその病気には原因があるのだ、と答えるしかありません。
その原因とは当人が作ったものもあるでしょう。親が作ったものもあるかもしれません。

生まれる前の前世で、その人が作ったものかもしれません。
遠い昔その人の先祖が何かをしたのかもしれません。
先祖だけでなく、村や集団の作った悪業かもしれません。


もはや原因は特定できません。
それはどこまでも過去にさかのぼり、関わる人は無限に広がり無始に至ります。
しかし原因はあるのです。


私たちはその過去のすべての原因を引きずって今に生きています。


霊能者と呼ばれる人がいて、たとえば四代前の男の人が不慮の死を遂げ、祀られていないのが原因だと言ったりします。実際に調べてみるとその通りのことが確認できて、回向すると病気が治ったりします。


あやふなな状態に確定した形が与えられ、具体的な対応策が提示される
それだけで人は安心感を得るのでしょう


しかしそれで終わってしまってはもったいない。
原因は、それだけでは終わらないはずです。その男の人の死にはさらなる原因があるのです。
どこまで行っても尽きることのない原因。


発症した病気には前世も含めた過去のすべてを引きずった「原因」があるのだという現実を丸ごと引き受けるしかありません。


そしてここがポイントですが、私たちはその原因を解消する責任を負わされているのです。
私はここがまずは宗教的な感覚だと思います。


自分の知らないこと、自分が直接やっていない悪事、それについても私たちは責任を負っているという感覚。



併せて、悪業に対して、申し訳ないという謝罪の感覚が伴う必要があります。
自分は何もしていないという点に執着していると事態は動きません。


逆にこの感覚を受け止めると、仏さまの救済が動き始めます
仏さまの救済の風はいつでも吹いています。
しかしその風を受けとめる帆を張らない限り船は前に進みません。


「なぜ、自分はこんなひどい目に合うのだ、こんなひどい目にあうほどの悪事は自分はなしていない。」
ここにとどまってはなりません


実はこの感覚は仏教のもう一つの大事なテーマ「空」ともかかわってきます。
病気は世界から切り離されたある特定の人だけに限定された現象ではありません。


すべての過去、すべての関係性の糸が紡ぎあげた移りゆく現象です。
不幸も病気も移りゆくものです。


仏さまも因果の内にいらっしゃいます。仏さまは悪業をなかったことにはしてくださいません。
しかし悪業の解消を力強く支援してくださいます。
そのためには結果には原因があるのだ、悪業があるのだということを、まずは受け入れる必要があるのだと思います


不幸があった、ご祈祷したらよくなった、そこだけにとどまっているとただの呪術に落ちます。

お気を付けください。



posted by 竜光 at 20:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | お説教

2015年11月06日

自然の知恵

今日NHKの番組でカエデの種(たね)の話をしていた

http://nature-sr.com/index.php?Page=11&Item=11

種はヘリコプターのようにくるくる回りながらなるべく遠くに飛んでいくのだという
解説者はこれを「自然の知恵」と解説していた
私は、若いころにはこれに毒づいていたと思う。
自然の知恵ってなんだ、自然が何か考えてこの種を作り出したというのか。
「自然の驚異」「自然の不思議」ならわかるけど、知恵は人間のものだろう
といった具合だ。

今、この番組を見てなるほど「知恵」だなあと思った。神仏の知恵の働きがこの世の現象として現れているというのが最近の実感である。

「初めに言ありき、言は神とともにあり、言 は神なりき」はキリスト教の言葉だが、とても密教的に感じる。
植物にも動物にもこの知恵が隠れている
だから私ども密教僧は狐や蛇やムカデにも拝むことができる


人間の脳髄が紡ぐ知恵も実はこの自然の知恵に結びついている、という実感を持つことができると御祈祷も験が現れやすい。

しかし、人間の脳髄の知恵を通してこそ私たちはその知恵に意味をもたせることもできるのだというのが師匠の弁


posted by 竜光 at 13:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | お説教