2012年02月23日

絆について

最近「絆」が大流行です。
なんとなく違和感があったのですが、先日読んだ「反・幸福論」(佐伯啓思著)でおもしろい指摘がありました。

p71〜

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今頃になってまた「コミュニティ」が見直されたり、時には「絆」などと言われたりします。両方とも、「共同体」や「縁」とはあえて言わないのです。「共同体」や「縁」は「ムラ」や「イエ」を連想させていまうからです。「絆」というのは、個人がある意味で自由に選びとり作り出すものです。それは偶然を引き受けようという「縁」とは似てはいるが全く違った言葉です。
「家族の絆」にしても。「地域の絆」にしても、個人が決意して作り出すものです。だけれども「家族の縁」や「地域の縁」といった時には、そこに、何か目に見えない超自然的なものが作用し、それを「縁」と表現すると考えるのです。人々の結びつきは本当は偶然で、何の特別な意味もないのですが、この「超自然的な力」を信じたことにして、「縁」を必然とみなそうというわけです。
 だから「コミュニティ」の見直しや「絆」を大事になどといわれますが、この場合にもやはり「血縁」や「地縁」は忌避されているのです。

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なるほど、私が感じた違和感は「絆」という言葉に宗教的な含みが希薄であることにあったようです。

このあと、近代の死生観の喪失といった話につながっていきます。
とても興味深い内容でした。
ご一読をお勧めします。




反・幸福論 (新潮新書)



posted by 竜光 at 02:34 | お説教

因縁について

先日、NHKで山田太一監督が話していたことです。

「生まれつきの違いを認めないと生きづらいです。

生まれつき美しい人、頭のいい人、お金を持っている人、生まれつき優位な立場の人がいる。

一方で、障害を持って生まれた人、物覚えの悪い人、要領の悪い人がいる。

人間は無限の可能性を持っているという言い方は酷だと思います。

無限の可能性を持っている、それをすべての人が発揮できるはずだということを強調すると、出来ないことはみな努力が足りないせいになる。

それはとても残酷な言い方ではないでしょうか?

スタート地点が違うのだから努力しなければならない程度は人によって違うと思うのです。」


ということでした。

努力がすべて結果を出すとは限らないというのはよく聞く話ですが、踏み込んでそれは生まれつきの違いだというわけです。

山田監督が、自分が関わった仕事の中で、もっとも印象に残っているのは「ふぞろいの林檎たち」で柳沢慎吾が演じる西寺実が、「もう少しましな顔に産んでくれれば、こんなに苦労しなかった」というくだりだそうです。

山田監督はあれだけ成功した人ですから、人一倍努力なさったでしょう。
その成功者がこれだけ弱者への慈愛にみちたまなざしを保ち続けているのはなんとありがたいことでしょうか。

一流のスポーツ選手がよく言う「努力すれば夢はかなうんです。それを知ってもらいたいのです」という言葉のもつ残酷さと無邪気さに比べて、とてもこころに染み入ることばではないでしょうか。

努力ですべてがかなうと本気でいう人がいるなら、大変傲慢な人です。
支えてくれる人やそれを続けていくことができた環境は、全部自分一人で作り上げたものであるはずがありません。

他人の助けがあり、それらがその人の周りに用意されているということに関して、人智を超えた何者かの働きを感じていないとしたら、なんと鈍感なことでしょう。

成功がその働きのおかげであるなら、もしかするとハンディキャップも同じなのかもしれません。

仏様の力といってもいいし、また因縁の力とも申せましょう。
因縁とは結局、自分が知らぬ間に積み上げてきた行為の集成です。
業とかカルマとかいうほうが最近は通りがいいかも知れません。

しかし、それなら自分が積み上げてきたものの結果が現在なら、努力の集成が今を作っているのだといってもいいのではないかという考え方も成り立ちそうです。
結局努力が大事ってことじゃないかと。

では業と努力の違いはなんでしょうか?

業は自分が意図していないこと、そして、生まれる前の前世になしてきた様々な行為を含むということです。

結局それは、現在の境遇は前世からの因縁による影響があるということを認めるということです。

実はこの考え方は現在、仏教界でもあまり大きな声では言えない内容になっています。

それは、ハンディキャップを抱えている人に過去生の悪業が出ているのだと言うことであり、生まれついての優劣があって当然だということにもなり、ひいては、人は生まれによって差別されてはならないという近代のヒューマニズムと真っ向から対立しかねない内容を含んでいるからでありましょう。

しかし、因縁を言わなくては、世の中にどうして幸せに穏やかに暮らせる人と、つらい人生を生きなくてはならない人がいるのかを説明できません。

説明できないことは「なぜ、自分はこんな境遇に生まれたのだ」という問いに答えられないことにつながり、苦しみを生むということにもなるのです。

今の境遇は結局自分が引き起こしているものだということを深いところで了解することが人生を生きる基盤となるべきなのでしょう。

大事なことは過去の行いが、「今後のすべて」を決定しているわけではないということです。新しい業を積み上げていくことで、また新しい今が生まれてくる。

一つ注意すべき点は「今、よい境遇にある人は、過去生で悪いことは行わなかったのだというわけではない」ということです。

師匠が教えてくださったことですが、輪廻を繰り返していくうえで、その業がいつ出てくるかはわからないのだということでした。今、苦しんでいる人はまさに今、その因縁を解消しようとしているのであって、私たちの業がいつ噴き出すかはわからないのだといいます。だから他人事ではないのです。

実は、私ども密教の行者は修行を始めるとたいてい不幸な目にあいます。
多くは病気ですが、経済的に困ることが起こったりもします。

ゴミ箱のふたを開けて中身を捨ててきれいにしない限り、結局よりよい自分にはなれないのでしょう。今、幸せな人はただゴミ箱のふたが開いていないだけかもしれないのです。
この意味で因縁という考え方は、ヒューマニズムを否定するものではないのです。
今、因縁による違いが表れているとしても、いつ、それが逆転するかわからないからです。
単純なヒューマニズム以上の深い意味を持っていると言えましょう。

ただ、私にとって上記のことはとても苦しい認識でした。

その意味で山田監督の「生まれつきの違いを認めないと生きづらいです」という言葉はとても新鮮に感じました。

違いを認め自覚することこそが、実は安心につながるのだという含蓄
因縁を受け入れることが優しさにつながるという内容に私はとても慰められました。

原因(因)があって、条件(縁)が整い、結果(果)がある。
これを因果と申します。

仏教のもっとも重要なテーゼです。
お釈迦様が最初に説かれたことです。
シャーリプトラ(舎利弗)はこれを聞いただけで悟ったとか。

大乗仏教はこれに加えて菩薩、如来の救いを説きます。
私たちは因縁から逃れることはできません。
しかし仏様がしっかりサポートしてくださいます。
仏様は手伝ってくださる、導いてくださるのであって、何かを決定してるわけではありません。
過去をなかったことにはしてくださいません。
仏様も因果のなかにいらっしゃるのです。

このあたりが神を全知全能とみなすキリスト教やイスラム教との違いなのでしょう。
因縁をなかったことにできない。
この点が仏教の醍醐味と思います。
(実はこの考え方は聖道門と言って、これに反対する立場もあります。浄土門といいます。また、それについてはいつか書くかもしれません。)

posted by 竜光 at 02:07 | お説教