2011年12月25日

般若心経は何のために読むの?

般若心経は何のために読むの?

いきなりこのような質問を知り合いの占い師の方から頂きました。

面喰いました。

一瞬言葉に詰まりました。

薬の効用のように、「風邪が治ります」とか「かゆみが止まります」というように、このお経は何々に効きます、というように単純化して考えたことなどなかったからです。

実際、その質問者はなにかおまじないの一環として般若心経をとらえている風でした。

以下、私の答えです。

般若心経に限らず、お経は仏様への供養として読みます。

供養とは、葬儀や、法事でお坊さんにお経を読んでもらったり、お墓や位牌を作って手を合わせること、つまり亡くなった方のために何かすることのように思われていますが、実は違います。

供養とはお世話をすること、ご飯をあげたり、衣服を清潔に保ち、明りをつけて部屋を快適に保ち、あるいは経済面の援助をおこなったりすることを言います。

お坊さんにお布施を差し上げるというのは、実は在家の方がお坊さんを供養しているということになります。

お経をあげることで仏様がお喜びになる。お水やお香やお供え物もそうですが、最も仏様を供養するのにふさわしいのがお経をあげたり写したりすることです。

その善行がお経をお唱えしている人にも良い縁となってめぐり廻ってくるのです。

亡くなった人はもう自分ではお経をお唱えできないのですから、生きている私たちが代わってお経を唱えさせてもらって故人にもその徳を振り向ける、これが回向(えこう)、回し向けるということです。

その徳を自分自身や生きているひとが受け取ればそれがご祈願となります。

ですから、お経を上げるためには拝む対象が必要なのです。

お経をなにか願望の実現のための呪文のようにとらえてしまうのはおかしいことです。

質問者に、写経もいいですよと申し上げたら、書いたものはどうしたらいいでしょうとのこと。

大事に取っておいてもいいし、札所と言われるようなお寺に奉納すればいいです、そのときにいくばくかのお金を添えるのが礼儀でしょうねと申しました。

近所に引き受けてくれるお寺がなければ、奈良の薬師寺の納経(お経をお寺に納めること)が有名だからそこに納めるといいですよ、奈良まで行かなくてもできるとの話もしました。
http://www.nara-yakushiji.com/osyakyo/

質問者の知り合いに写経を書いてはそのつど捨てている人がいるとのこと。

なんともったいないことでしょう。
カルマを写して焼くというようなイメージのようですが、そのような術のツールとしてお経を考えているとしたらなんともさみしいことです。

お経はなんのために読むのか。

このような根源的な質問は答えるのが難しいのですが、いまそれについて考える機会を下さった質問者に感謝したいと思います。



posted by 竜光 at 19:40 | お説教

2011年12月05日

過去と未来に苦しめられる

先日、重要な仕事の場所を間違えてしまい、正しい場所に移動するのに二時間かかってしまい、先方の方をその間お待たせし、仕事の依頼主にも大変なご迷惑をおかけしました。

たいへん申し訳ないことをしたのですが、私としては充分にお詫びを申し上げ、二度とこのような間違いをしないように対策をとるしかありません。

このことは私のミスですが、お身内を交通事故で亡くした場合であるとか「次の解決策」などあり得ない場合もあるでしょう。
あのとき、もっとああしておけばよかったと思い悩んでも過去を変更することはできません。

未来も同じです。

私は今大恩あるお二人からの仕事の依頼がバッティングしており、あちらを立てればこちらが立たずということになりかねない状況に置かれています。

具体的な内容はもうしあげられませんが、どうしたらいいのだろうと悩んでおります。

ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと思い悩んでいると、未来の悪い状況ばかり考えているということに気づかされます。

過去と違って未来はコントロールできそうな気もしますが、結局、未来は現実ではなく、できることは今やれることだけです。

●現状を受け入れること。
●ご迷惑をかける可能性がある状況を正直に説明すること。
●解決方法をなんとか探ること。
●一人で抱え込まずに人に相談すること。
●知恵がでることを信じること

こんなところでしょうか。
先日、ある先生から教わったことですが、「過去」も「未来」も「こころ」が作りだしているものだということです。

あのときああすればよかった、なぜあんなことになったのだろう、こうなったらどうしよう・・・なるほどみんな現実ではなくこころが作り出しているのでしょう。

やるべきことは「今」にあること、私たちを苦しめる過去も未来も実は私たち自身のこころが作り出している幻であること。

大事なことはそのことに気づくことだそうです。

過去の事実も未来の予想も、そのことにとらわれていると苦しみの元です。

過去を反省しない、将来の計画をたてず行き当たりばったりに行動することはもちろん褒められたことではありません。

しかし反省も計画も、いま何をすべきかを判断するための材料であるべきでしょう。

苦しいときは、こころが作り出した過去と未来がなんの解決策も生み出さないまま、堂々巡りで私たちを執拗に苦しめ続けているのかもしれない。
実はそのことに気づくための練習が瞑想だそうです。
精神集中と観察、これが止観と呼ばれる仏教の瞑想です

瞑想も座禅も何も考えずにこころを無にすることだ、と思っていました。
それだと瞑想が終わればまた元通りです。

仏教の用語は難しく深淵ですが、実はもっと現実に即したわかりやすいものなのかもしれません。



posted by 竜光 at 14:02 | お説教